本記事は、映画「ドライブ・マイ・カー」のネタバレを含んだ、感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
「ドライブ・マイ・カー」
2021年、濱口竜介監督によって製作された作品。
原作とのなるのは作家「村上春樹」のありとあらゆる小説であり、脚本は監督の濱口竜介と大江崇允によって練られている。
世界各国で多くの映画賞を受賞しており、今後は濱口監督の代表作となっていく作品だろう。
上映時間は179分。
あらすじ
舞台は東京、演出家である「家福悠介」は、娘を亡くしながらも、舞台演出家の「音」と仲睦まじく過ごしていた。
そんなる日、「くも膜下出血」によって音までもを亡くしてしまうこととなる。
月日が経ち、家福は広島にて「舞台演出家」として大掛かりな舞台に取り組むこととなるが、そこで専属ドライバーの「渡利」と出会うこととなる。
家福は様々な人間と接していく中で、二年前に亡くした音のことについて、改めて考えさせられることとなる…。
出演役者
今作の主人公、家福悠介を演じるのが「西島秀俊」
家福の妻である、音を演じるのが「霧島れいか」
家福の専属ドライバー、渡利を演じるのが「三浦透子」
家福の舞台に出演する若手俳優、高槻耕史を演じるのが「岡田将生」
配信コンテンツ
「ドライブ・マイ・カー」は今現在、Amazonプライム、U-NEXT、等で配信されている。
ネタバレ感想と考察
「これでいいんだよ…。」 そう思わせてくれる構成と上映時間。
本作の原作となるのは村上春樹氏の同名小説、そして小説「女のいない男たち」の中で展開される短編などの物語を複合して作られた作品となっていた。
村上春樹氏の小説を網羅していない筆者の感想や考察であるので、これを読むハルキストの方々には大変申し訳なくなるかもしれない記事であることを先に謝っておこう。
村上春樹氏の小説は数冊読んだことがあるが、今回の映画では彼の小説で展開される独特の間の取り方が非常に上手に見える作品となったように思う。
その一番の要因となるのは、なんと言っても上映時間をたっぷりと180分も取っていることだろう。
この180分の間、決して言葉多く語られることなく、物語自体も「ドライブ」がテーマとなることから、運転のシーンや役者の沈黙やゆったりした動作にたっぷりと時間が与えられる構成となった。
この間の取り方や演出などには「つまらない映画」と揶揄する鑑賞者も多かったようであるが、そもそもがそういう小説なのだから仕方がないと思う…。
そして、こんな役者同士の会話を繋ぐ一番の隠し味となっているのが「広島」という舞台設定でもある。
主人公、家副の住まう瀬戸内、そして広島の高速道路の風景、夜景に至るまでが映画の演出として計算されたものだろう。
また、原作小説では家福の乗る車は黄色の車体だったのに対し、映画では赤となっていた。
これには「風景映え」を意識した理由があるようだ。
「小さな冒険」と「少しの刺激」!!
本作のタイトルはビートルズの楽曲「ドライブ・マイ・カー」からそのまま引用されたタイトルであり、文字通り北は北海道、南は広島までを車でゆったりと走り抜けるスローライフ邦画となっていた。
この日本を縦断する「旅感」においては、2002年に発行された「海辺のカフカ」や、2004年の「アフターダーク」などと同じような、感覚を覚えた人も居ただろう。
まったりとした映画の雰囲気で淡々として物語は進むが、その中でもちょっぴり刺激的な「人間関係」が織り成されることが、村上春樹の真骨頂でもある。
キャラクターの各々が非常に深い闇を抱え、それを車の中で吐露していく描写は本作の「スパイス」となり、同時に本作で語られる「核」に迫る内容にも一枚噛んでいたようにも思う。
また、「村上春樹と言えば…」とイジられるほどに代名詞となったベッドシーンも相まって、「人間関係」を紐解いていく見方が非常に楽しめる作品だっただろう。
大きなテーマは「死人との決別」
本作での主な登場人物は二人。
主人公、家福と運転手である渡利であるが、二人の共通のテーマとなるのが「どちらも大切な人を亡くしている」という事実だった。
家福は妻と娘、そして渡利は母親である。
この映画では、家福の妻である音が死亡するまでもしっかりと時系列として描かれているが、この「死亡シーン」が非常にあっさりと描かれているのが印象的に映った。
これは、妻の死に淡々と対応する家福のキャラクターも影響しているだろう。
そんなあっさりと描かれる「重要人物の死」であるが、それをずっと引きづったまま物語が進行することからも、今作のテーマが浮き彫りになってくる。
まずは「車内でずっと音の声が流れている状況」、そして「音と不倫関係にあった、若手俳優の高槻が自身の舞台の主演を演じていること」だ。
あまりにも急な別れであったことから妻と決別できていない主人公、家福の姿、そして「寡黙で冷静な男性」がこういう事態に直面した時にどのような感情を抱くか?
そんな内容を監督の濱口、そして村上春樹の色を出した目線から描かれたことが、見どころでもあるだろう。
主な登場人物となる家福と渡利、二人共が「寡黙なキャラクター」としての位置づけだったが、想いを吐露するきっかけとなったのが「高槻との車内での会話」であり、ここが物語の感情の歯車が動き出したシーンとなっていた。
車内で音と関係を持った高槻の口から放たれる「音が抱えていた悩み」、そしてそれを家福に諭すように語られる一言一句が重く突き刺さる。
物語の最後では、「不倫に触れなかったこと」を酷く後悔し、物語の中で一番の感情を吐露する主人公の家福、そしてもう一人の主人公の渡利も母への言葉にならない思いを始めて言葉にしていた。
話は戻るが、高槻の口から放たれる車内での会話の中で「女子高生が男の家に空き巣に入る話」が登場する。
こんな物語とは一切の関係を持たないようなおとぎ話が長い時間をかけて展開されていく様子は、「村上春樹の小説らしい」演出に仕上がっていた。
物語の最大のトリック「劇中劇」
本作の物語の登場人物は、ほとんどが「舞台役者」という設定で物語が進行する。
主人公の家福はもちろんその他の登場人物も殆どがそうで、「演劇」と関係を持たない唯一の人間が「渡利」となっていた。
そんな「舞台の稽古」から「本番」までが描かれるストーリーであるが、「映画内の配役」と「劇中劇の配役」のキャラクター性に境界線を持たないような演技もポイントであると感じた。
家福の淡々としたキャラクターはもちろん、妻である音もどこかミステリアスなキャラクターを演じ、高槻の「何を考えているかわからない雰囲気」までもが、鑑賞者を混乱させるくらいに演じられていた。
「どこからどこまでが演技で、どこからどこまでがリアルなのか?」
そんな疑問を抱えるような物語のプロットは、よりアンニュイに鑑賞者の心に突き刺さっただろう。
また本作では、前述した「女子高生が男の家に空き巣に入る話」のように、様々な箇所に「物語とは関係のない演出」が施されていて、そんな些細な発見を探すのも楽しみ方の一つだろう。
渡利には頬に傷があったことが言及されたりもするが、物語の最後ではその頬傷は「目立たなくなるように施術されている」ようにも感じるし、彼女は韓国に移り住み、犬を飼っていた。
更には当時、家福は乗っていた車種と全く同じものに乗っている描写で終わりを迎える。
色々な結末を想起させる終わり方となった。