本記事は、映画「ゴーンガール」のネタバレを含んだ、感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
ゴーン・ガール
2014年、デヴィット・フィンチャー監督によって制作されたアメリカのミステリー映画。
ギリアン・フリンによる同名小説が原作となった。
一人の女性の失踪事件を追った物語。上映時間は149分。
あらすじ
舞台はアメリカ、5回目の結構記念日を迎えるニックとエイミーの夫婦は、毎年「刺激的な贈り物」を求めてお互いがアプローチしていた。
そんなある日、いつも通り家にニックが帰ると部屋の中が荒らされ、妻のエイミーが失踪しているのだった。
おしどり夫婦の妻の失踪とあって、全米は大騒ぎする。
果たしてエイミーはどこのいるのか?
生きているのか?死んでいるのか?
出演役者
本作の主人公、夫であるニックを演じるのが「ベン・アフレック」
アメリカの男らしい男性俳優で、あの「アルマゲドン」や「バッドマン」シリーズでも活躍を見せる俳優である。
本作のもう1人の主人公、妻のエイミーを演じるのが「ロザムンド・パイク」
「007」シリーズなどに出演し、本作を含めミステリアスな女性を演じることの多い女優である。
配信コンテンツ
「ゴーンガール」は今現在、Amazonプライム、U-NEXT、Hulu、等で配信されている。
ネタバレ感想と考察
ミステリーを描かないミステリー監督によるミステリー作品。
本作は2時間を超えるほどの長編映画としても有名であるが、一人の女性の失踪を描いたミステリー作品としてのメインテーマを持ちつつも、そんなミステリーを描かない作風が特徴的である。
本作の裏のテーマとして潜んでいるのが、「彼女が何故失踪してしまったのか?」という要因であるが、映画の脚本は、彼女の行方に焦点を合わせず、その「理由」についてスポットライトを当てている作品であった。
現に映画の中盤において、エイミー目線での物語が進行し、ミステリー要素を全てバラしてしまっているのが面白い。
2人の異なる「人生観」と、その行動や考え方の違いこそが本作のメインテーマとなる作品である。
本作のテーマはズバリ「結婚とは何か?」
エイミーが失踪し、そして刑務所に入るように仕組んだ理由、それは「彼が役割を演じていなかったから」であった。
ここに本作における「結婚」に対しての本作の真のテーマがある。
「結婚」=「役割を演じること」
エイミーの考えはドライで冷徹なものだった。
「結婚」というものが幸せであるが故の欠点、誰もが苦痛と感じる部分の確信を突いた作品だとぼくは考えている。
「浮気すること」は「役割を果たしていない」
「子供を作らないこと」は「役割を果たしていない」
エイミーの夫となる人物に求める「夫としての役割」を、ニックは十分に果たせていなかったのは間違いのない正論だろう。
しかし、ここまでに「結婚の価値観」に拘った考え方を持ち続けるが、エイミー自身は「人間としての役割」を果たせていなかったようにも感じてしまう…。笑
本作のモデルとなった事件がある。
ミステリーに見えないほどにサイコな描写が多かった映画であったが、本作にはベースとなった事件がある。
・スコット・ピーターソン事件
2002年、スコット・ピーターソンという社会人男性から「妻のレイシーが失踪した」という連絡が入る。
妊娠8ヶ月であった女性が失踪したことから、 瞬く間に全米の注目を集めるニュースとなった。
自身の妻が連れ去られたこともあり積極的に操作に協力するスコットだったが、言動の不審な点から次第に警察から「容疑者」として疑われるようになる。
スコットを擁護していたレイシーの家族でさえも、スコットの浮気がわかると手のひらを返すように貶すようになる。
スコットに対する世間のイメージもガタ落ちし、スコットが真犯人であるという認識が広まるのだった。
そしてレイシーの失踪から4ヶ月後、レイシーとその胎児の死体がサンフランシスコ湾で発見され、スコットは逮捕、死刑が宣告されることとなる…。
こんなにも残酷なニュースを見事に映画に落とし込み、「結婚観」という新たなテーマを加え、映画として成り立たせたギリアンとデヴィットの鬼才冴え渡る作品となった。
本作のジャンルはミステリーでなく「ブラックコメディ」
本作の映画のミステリーさに隠れて描かれていたのが、本作の「コメディ作品」としての要素だろう。
映画前半ではエイミーの失踪謎を解き明かすミステリー作品、映画の後半ではニックとエイミーの駆け引きが冴え渡る、サイコサスペンス作品、そんな映画の前半、後半を通して描かれていたのが、本作の「結婚」を皮肉るように描かれた「ブラックコメディ作品」としての一面だろう。
ニックの行ったゲスすぎる行動の数々、そしてそれに対して行われるエイミーのやりすぎな行動の数々。
2人の織り成すシーソーゲームのようなダークなコメディに魅力される作品だろう。
「味方」が一瞬で「敵」に変わる瞬間。
映画の前半〜中盤、ニックは心の優しい男性としての立ち位置をしっかりと築けている印象であるが、途中、急に登場するのが、ニックの不倫相手である「アンディ」の存在だろう。
この女性の登場によって一気にニックの印象が悪くなっていくのを鑑賞者は肌で感じたはずだ。
そんな「イメージの逆転現象」は、ニックだけでなくエイミーでも色濃く残っているだろう。
本作の核となった演出、エイミーのサイコパス感
本作の監督であるデヴィット・フィンチャーが「鬼才」として謳われる所以となったのが、エイミーのサイコパス感である。
彼女のキャラクター性無くして、本作の映画を語ることはできないだろう。
序盤ではどこか変わった刺激的なキャラクター性の女性から一変、自分がどんな労力を働いても狙った獲物を確実に奈落に落とす、女性としての執念深さの闇を見ることとなる。
自身の性器に傷を付け、同棲していた男の首を掻っ切るシーンはとても衝撃的だった。
本作における「メディア」の存在について。
本作の映画において、とても重要な立ち回りとなる媒体が「メディア」である。
本格的に実質的な「死闘」を繰り広げるニックとエイミー、そしてニックの兄弟であるキャリー、エイミーの両親、その全てが振り回され、味方につけようと足掻く立ち位置として描かれていたのがこの「メディア」だった。
「結婚」という本質的テーマに、一番大きく絡んでくる要因である「世間体」、その世間体を左右するメディアこそが本作の裏の「主役」であったとも考えられるだろう。
そして、映画を鑑賞する私たちでさえも、この「世間体」の中で思考を巡らせている…。