本記事は、映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」の
ネタバレを含んだ、感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、
注意して読み進めてください。
バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
2014年、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督によって制作された作品。
かつて人気を浴びてたハリウッドスター俳優が再起を賭けて「ブロードウェイ」に挑む物語。
上映時間は119分。
あらすじ
舞台はアメリカ、ニューヨーク、かつて「バードマン」シリーズの主演を務め、超人気ハリウッドスターとして名を馳せた「リーガン・トムソン」は、20年間でヒット作が無く、世間から忘れ去られつつあった。
再起を賭けらリーガンは、自らが主演、脚本、演出を務め、「ブロードウェイ」の舞台に挑むことを決意する…。
出演役者
本作の主人公、リーガンを演じるのが「マイケル・キートン」
作中のキャラクター「バードマン」のモチーフともなっている「バットマン」シリーズで、かつて主演を務めていた俳優である。
リアルのマイケルと重なるような描写があり、その演技のリアルさは他の作品を凌駕するものだった。
「リアル」を追求する舞台役者、マイクを演じたのが「エドワード・ノートン」
これまでにも、アクションや人情ドラマなど、数々のハリウッド映画に出演しているベテラン俳優である。
その演技力の高さがハリウッド映画でも評価され、第72回ゴールデングローブ賞と第87回アカデミー賞の助演男優賞にノミネートされた。
リーガンの娘のサマンサを演じたのが、「エマ・ストーン」
32歳という年齢ながら今までにも数々の映画作品に出演し、ハリウッド女優として第一線で活躍する女優である。
2016年に公開され、今も尚人気が続く作品、「ラ・ラ・ランド」のヒロインを演じている。
リーガンの親友の弁護士、ジェイクを演じたのが「ザック・ガリフィアナキス」
俳優としての顔の他にも「コメディアン」としての顔を持ち、映画でもコメディ映画へのキャスティングが多い俳優である。
有名な「ハング・オーバー」シリーズにも出演している。
ネタバレ感想と考察
映画史に残る撮影方法「全編ワンカット風」の作品
「ワンカット撮影法」
映画において、技術力と根性を要する撮影技法の一つである。
一人の人物を一台のカメラで「カット無し」で追い続ける技法であるが、作中のNGが出せないという大変高度な技である。
本作品がハリウッド映画として、第87回アカデミー賞を受賞した最大の要因がこの技法にあるだろう。
本作品は、上映時間の2時間中、全てがワンカットで撮影されたような作風である。
主人公が部屋にいるシーンを映し、そこにマネージャーが入ってくる。
主人公とマネージャーの会話を描写した後、今度は部屋を出ていくマネージャーをカメラで追い始める…。
作中で描かれる期間は日数にして1週間程度の時系列だと思われるが、全てのシーンの「繋がり」を違和感なく見せていることがとても特殊で面白かった。
一度映画を鑑賞し始めたが最後、トイレに立つ際も映画を止めたくなってしまうような映画の撮り方がなされ、2時間中ずっと物語が展開され続けていた。
夜から朝になるシーンや、楽屋から舞台の映像へ切り替わるシーンも、タイムラプスのような早送りや壁などの障害物によって、上手く一台のカメラで撮っているような映像となっていた。
この「ワンカット風」の撮影をするにあたって、やはり多大なる時間とお金と非常に高度な技術が集結されたという。
撮影地としても、もちろんニューヨークのブロードウェイ周辺で撮影が慣行され、劇場のシーンでは30日以上もの時間をかけたようだ。
劇場の舞台となった「セントジェームズ劇場」が主な撮影地となったが、作中に登場するバーは離れた場所にあったために、劇場からバーまで歩くシーンなどに特殊な視覚効果が用いられた。
余談ではあるが、この「ワンカット風」の長編映画の製作にあたって、「本物のワンカット」での作成を考えていたらしいが、「権力を持ち発言力のある人々」が、その撮影方式に反対したらしい。
「現実」と「妄想」が入り混じる世界観
映画の最初、「超能力」を駆使する主人公リーガンの姿が描写される。
その語も随所にリーガンによる超能力が登場するが、その超能力が、リーガンによる「妄想」である演出効果が作品中盤で描かれていた。
そんな描写をはじめとした、「現実」と「妄想」が入り混じる「ミュージカル的」演出が本作には多かった。
その他にも、作中に道すがら演奏していたストリートドラマーが、作品の終盤で、なぜか劇場楽屋でドラムを叩いていたり、幻影として「バードマン」が現れたり、銃で木っ端みじんに吹き飛んだはずの鼻が再生しているなどの描写があった。
これらの演出によって「ワンカット風」に見せかけながら、時系列の前後はリアルタイムで行われていないことが鑑賞者にわかりやすく伝わり、本作における「物語感」を作り出した演出ともなっていた。
モデルはやっぱり「バットマン」!?
本作の主人公、リーガンを演じたマイケル・キートンは、DCコミックスの映画版「バットマン」シリーズでもバットマン役を演じていたことは有名である。
今作で登場する「バードマン」も、まるでバットマンのような容姿で登場し、キャラクターモデルとして「バットマン」が用いられたことは誰が見てもわかるだろう。
本人が演じていただけではなく、バットマン特有のドスの効いた低い声すらも再現されている。
そして何よりも、「マイケル・キートン」自身の境遇を代弁するようなキャラクターであったことも、マイケルの「リーガンとしての演技力」をより、リアルに見せる演出となっていた。
1989年に「バットマン」の主演を務めたことを皮切りに一躍時の人となったマイケルだったが、その後は映画作品には出演するも「大ヒット」となる作品には出演していないような印象を受けた。
事実、本作「バードマン」での抜擢によってそれまでは無縁となっていた「アカデミー賞」をはじめとする、30もの賞でのノミネートや受賞を果たしている。
ラストシーンの真実とは!?
物語の最後、窓から飛び降りて、「自殺する」と見せかけながら、娘であるサマンサが笑顔で天を仰ぐシーンで幕を閉じる。
この点の真実について考察してみると、やはりここでも「妄想パート」が描かれていたことを示唆している。
これまで呪縛の鎖で繋がれていた「バードマン」と、俳優としてのリーガンの関係性を断ち切り、自由に空を飛びまわる…という脚本を、妄想描写で映し出しているのがこのシーンだろう。
また、その少し前から、鼻を吹き飛ばされたはずのリーガンの鼻が再生されている演出も出てくる。
この「鼻を吹き飛ばす行為」にも、重要な意味があったので、次項で考察してみよう。
吹き飛ばされた「鼻」の真相とは!?
前述した「鼻の再生」について、本来であれば頭を打ち抜き「自殺」しようとしていたリーガンであったが、誤って鼻を打ち抜いてしまったと新聞で描かれていた。
これも「自殺」ではなく、「あえて」鼻を打ったとも考えられる。
20年前、「バードマン」による大成功を収めたリーガンは、「ハリウッドスター」としての自分を誇らしく思い、まるで「天狗」になっていたような描写も数多くあった。
役者のケガによって、新たな役者をキャスティングするシーンでは名だたるハリウッド俳優の名前を羅列したり、舞台役者であるマイクとバーに赴いた際はサインや写真を求められてはドヤ顔で応じていたり、自身の「過去の栄光」に陶酔するような描写が演出されていたのだ。
そんな天狗となった「鼻をへし折る」という意味合いでも、わざと鼻に発砲したとも考えられるだろう。
鼻を吹き飛ばすことで、彼は「バードマン」という因縁なら解放され、自由に空を飛び回ることができるような描写となっていたと考えられる。
もっとも「天狗鼻」という言葉が、海外にある概念なのかは謎であるが…。
「ハリウッドスター」の称号を捨てきれず、「舞台」なら何とかなると、「ブロードウェイ」を舐めているようなキャラクター性もなかなかに攻めた脚本だった。
「批評家」であるタビサにボロクソ言われるシーンも、可哀そうながらにタビサにも一理ある意見にも聞こえてしまった。
そんな批評家のタビサが本作のタイトルまでに絡んでくる重要なキャラクターでもあったことに、皆さんは気が付いただろうか?
映画タイトルの真実とは!?
本作の映画タイトル、邦題にして「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」
なかなかに長ったらしい邦題であるが、本作の題名が、前述したタビサに大きく絡んでくる。
まずは「あるいは」の部分。
これはリーガンが「バードマン以外」の何かでありたいための心情を「連語」としてタイトルに反映させたものだろう。
その後に続くのが「無知がもたらす予期せぬ奇跡」の部分。
タビサは自身が書いた新聞記事で、発砲は「模型の銃」と「実銃」を間違えたもので、その演出が「運よく演劇界に「血」を思い出させ、「新風」を吹き込んだ」と表現し、「無知がもたらす予期せぬ奇跡」と語っている。
これをタイトルに組み込んでくることに、映画の本質的テーマが隠されていると考えていいだろう。
本作品の醍醐味は、リーガン自身の人生ストーリーに隠された「ハリウッド映画へのアンチテーゼ」とも紐解くことができる。
今回の作品で語られたのは「ハリウッドスター」と「役者としての実力」は関連性の無いものということ、そして「映画」と「舞台」の本質的違いと、映画の下位互換として見られることへの警笛である。
映画では全てに「編集」が加えられいいところだけを切り取った作品が作られるが、「舞台」ではアナログでリアルな表現方法が備わっている。
本作品が「ワンカット風」で製作されたのにも、そんな「舞台」を思わせる意図があったのかもしれない。
ちなみに、本作でリーガン自ら脚色、演出、主演を担い、「舞台化」しようとした「愛について語るときに我々の語ること」であるが、リーガンが俳優を志すきっかけともなった、「レイモンド・カーヴァ―」の小説を脚色したものであり、これを舞台化するには相当の才能と実力が無ければ成り立たない脚本である。
そんな題材の選定からも、「舞台というものを舐めている」と思われてしまうのも仕方のないことだろう…。
クラゲと火の玉の描写考察
作品中、リーガンが元妻に「海に入ってクラゲに全身を刺された」というエピソードを披露するシーンがある。
そして物語終盤、映像として「浜辺に打ち上げられたクラゲの死骸」が流れている。
これにも作品のテーマとなる内容が組み込まれ、それには「神話」が絡むメッセージが込められていた。
同じく物語終盤、バードマンはリーガンに、「俺たちのやり方で派手に幕を閉じるんだ。炎に向かって飛べイカロスよ」と、囁くシーンがある。
そして、クラゲのシーンと同じタイミングで、空から降り注ぐ「火の玉」も描かれている。
この火の玉には、イカロス神話に重ねてバードマン(過去の傲慢な自分)が燃え落ちることが意味された表現であると考えられる。
「イカロス」とは、ギリシャ神話の物語で、蝋でかためた翼を広げて太陽に挑むものの、熱で蝋が溶けて落下死してしまうという神話である。
そして無数のクラゲは、同じく死んでいった者の屍であるとも読み取れる。
これらの話は、監督、脚本からは語られてはいないが、これまでの構成とはマッチしない、「火の玉」や「クラゲの死骸」が登場することから、何らかのメッセージ性が隠されていることはわかるだろう。
重ねて言うのであれば、「ワンカット風」の描写が描かれないシーンは後にも先にも、このシーンだけなのだ。