「ファンタスティック・プラネット」ネタバレ感想と考察【人間が「飼われる」世界】

  • 2021年6月1日
  • 2023年8月24日
  • 映画
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本記事は、映画「ファンタスティック・プラネット」のネタバレを含んだ、感想と考察記事です。

鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。

ファンタスティック・プラネット

1973年、ルネ・ラルー監督によって製作されたフランスの作品。

ステファン・ウル氏のSF小説「オム族がいっぱい」が原作となる小説。

上映時間は72分。

 

あらすじ

舞台はパラレルワールド、どこかの惑星にある「イガム」には巨大な人型の生物「ドラーグ族」が文明社会を築き上げ、親指サイズ程度となった人間を無視やペットなどのようにして扱う世界が広がっていた。

ドラーグに飼われていない人間たちが「野蛮人種」、ドラーグに飼われている人間が「高等人種」と呼ばれ、そんな小さな人間である「オム族」は、度々ドラーグ族の議会の議題として取り上げられ、その知性の高さに脅威を感じられるのだった。

そんなる日、悪ガキドラーグ族のイタズラによって、虫ケラのようにオム族の母親が殺される。

残された赤ん坊の子供はドラーグの少女「ティバ」によって拾われ、飼育されるのだった。

出演キャラクター

本作の主人公、ドラーグに育てられたオム族である「テール」

 

テールを拾い、飼育するドラーグ族の女の子「ティバ」

 

ドラーグ族の面々

 

オム族の面々

ネタバレ感想と考察

世界的!?SFアニメの金字塔とも呼ばれる作品。

本作のファンタスティック・プラネット、知る人ぞ知るマニア向けのアニメ映画として地位を確立している作品であるが、Amazonプライムやネットフリックスなどのサブスク型のネット動画サイトで徐々に知名度を上げてきている。

筆者であるぼく自身、その存在を知ったのはAmazonプライムでの「オススメ映画」であり、その強烈なキャラクターデザインに魅力を感じて鑑賞するに至った経緯がある。

映画として世に放たれたのはなんと1973年と、想像以上に昔の作品であったが、その強烈なキャラクターデザインと秀逸な世界観から、現代映画の見劣りしない斬新さを持っている映画となっていた。

映画公開当時の人々は決して感じることが無く、現在に生きる人々だけが感じるであろう、その「昔のアニメ」を感じさせる粗さと演出の数々が心地よく刺ささった要因の一つであることは間違いないだろう。

そんな人気が要因となったのか、2021年の5月28日より渋谷HUMAXシネマほかより全国ロードショーがされるなど、人気に再び火がついている作品となった。

ただでさえ、独創的でシュールな本作、人気再燃の秘訣がいくつも織り込まれた作品でもある。

あの「風の谷のナウシカ」がモデルにした世界観!?

本映画のキャラクターや世界観など、人気の一番大きな秘訣となるのがこの要素であるが、フランスのアニメ界の巨匠であるルネ・ラルー、そして作画には、前衛的な作品の数々を世に放ってきた、作家であるローラン・トポールのタッグによって作り上げられた作品となった。

トポールの作品

 

そんな本作品の独創性を裏図けるような逸話としてあの宮崎駿が「風の谷のナウシカ」のモデルにしたといも言われている。

本作の世界観で登場する、存在することのない生き物や見たことのない巨大な植物など、想像力を働かせワクワク感を駆り立てるデザインの描写が多かったことは鑑賞者にもわかっただろう。

この惑星で描かれた世界観では、人間は親指程度の大きさであり、数々の生物や植物たちが「捕食者」の立ち位置として描かれていたのが印象深い作品となっていた。

事実、「風の谷のナウシカ」でも、人間が「捕食される側」としての巨大生物が登場し、生態系の歯車の一部として人間が組み込まれているのは同じ観点の脚本となっている。

また、余談ではあるが、「進撃の巨人」も本作品をモデルとして描かれているらしい。




「生活環境」の独創性も面白い作品

本作の核となる存在「ドラーグ族」、形は完全に人間であり言葉も操る「知能生物」として描かれているが、そんな彼らの「生活環境」の斬新さにも舌を巻くほどの見事さがある。

彼らの「衣食住」に関して触れてみると、食事は「緑の雲のようなもの」を吸うだけの描写で描かれ、寝るときは「部屋の真ん中のくぼみ」に丸まって寝る。

そして、人間ではまだ発明できていない「学習装置」の存在や、人間に取りつける「首輪」など、原理がわからない道具や理屈が通用しない行動や現象が当たり前に演出されていくことが大変面白い存在となっていた。

また、ドラーグ族だけの習慣である「瞑想」という行為では、映画の名シーンとしても名高い「白目になって細胞が分裂する?」ような描写も描かれている。

「いったいどんな原理で動いているのか?」「何のために行っているのか?」そんな尽きない疑問たちに言及しないまま、脚本の一部として昇華している点こそ、本作最大の人気の秘訣となっているだろう。

深すぎるテーマで描かれたカルトムービーとしての一面

本作品が人気である秘訣、キャラクターデザインはもちろんだが、宗教観も含まれた脚本にこそその面白さはある。

今現在の地球、生態系のトップに位置する「人間」であるが、そんなぼく達の上に新たな存在が現れる。

日本の漫画では「約束のネバーランド」(人間が家畜であり、鬼に支配された世界観)と似たような世界観であるが、生態系のトップとなっている「ドラーグ族」の人々も「人間と同じ知能」を持っているのが斬新な要素だろう。

彼らの中にも「人間」に愛情を向けて飼育する者も居れば、まるで虫ケラのように殺してしまうドラーグも存在する。

物語終盤まで、ドラーグ族に蹂躙されつ続ける人間たちではあるが、本作を最後まで鑑賞した人なのであればドラーグ族に嫌悪を抱く鑑賞者は少ないことだろう。

なぜなら、本作において「自分自身」として重ねる対象は人間ではなく「ドラーグ族」なのだから…。

物語終盤でやっと人間の「知能者」としての一面が覚醒し、「ドラーグ族の脅威」として認められ、結果「和解」まで持ち込むことに成功するが、その立役者となっていたのが、主人公である「テール」だった。

テールは幼少期からドラーグ族に飼われ「高等人種」として飼育されるが、その過程の中で、ドラーグ族の少女「ティバ」は学習道具である学習器で勉強する際、テールと一緒に学習する描写が描かれる。

これによって、テールが惑星イガムに関する知識をつけていたことがドラーグ族との戦争のきっかけとなっていることを考えると、そこには壮大なテーマが見えてくる。

それは「ドラーグ族の発展」こそが「ドラーグ族の滅亡」と結びついていたことであった。

この考え方、そのまま現代に生きる人間たちにも割り当てて考えることができ、今回の作品と同じ「発展と滅亡」が結びつく作品は皆さんにも心当たりがあるだろう。

現代に生きる人間も何かしらの生物を「飼育」したり、「毒ガスで虐殺」したり、「面白半分で殺害し」したりしているだろう。

そんな現代に対して警笛を鳴らす「人間へのアンチテーゼ作品」としての一面も持ち合わせている作品となった。

ちなみに、現代、現代…と連呼しているが、本作本はなんと50年近くも前の作品である。

そんな前の時代にこんな作品を構想し描いていたことからも、ラルー監督やウル氏の奇才ぶりが伺えるだろう。