本記事は、映画「第9地区」のネタバレを含んだ感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
第9地区
2010年、ニール・ブロムカンプ監督によって制作された作品。
地球に降り立って20年間住み続けたエイリアンと人間の物語。
ちなみに本作の監督であるニールの出身は南アフリカのヨハネスブルクであるが、映画の舞台もヨハネスブルクとなる。
上映時間は111分。
あらすじ
舞台は1982年の南アフリカ共和国のヨハネスブルグ、突如として街の上空に巨大な宇宙船が現れる。
一向に動こうとしない宇宙船を探索すると、中には大量のエイリアンが住んでいるのだった。
それから28年後、エイリアンが「難民」として、蔓延るヨハネスブルグで、「エイリアン移送計画」が動き始める…。
出演役者
本作の主人公、MNUのエイリアン対策課職員のヴィカスを演じるのが「シャールト・コプリー」
本作を代表とし、主にSFやアクション作品に出演する俳優。
他の作品では「特攻野郎Aチーム」などがある。
MNUの傭兵部隊隊長のクーバス大佐を演じるのが「デヴィッド・ジェームズ」
本作以外では大々的な出演作品は見られなかった。
配信コンテンツ
「第9地区」は今現在、Amazonプライム、U-NEXT、Hulu、dTV、等で配信されている。
ネタバレ感想と考察
通常のSFとは一味違う…「未知との遭遇」が描かれない!?
地球に降り立ったエイリアンを描いたこの作品、例外なく生粋の「SF作品」として鑑賞できるが、他の映画では描かれない面白い脚本がとても印象的だった。
それは、「すでにコトが起きている」世界観である。
この手のSF作品なのであれば通常描かれるのは「地球にエイリアンが攻めてきた!」という描写であったりと、未知との遭遇がこれから描かれる描写となるが、こと本作に関しては既にエイリアンに侵略されている世界線で描かれていたのが面白い。
映画の舞台は2010年の世界であり、これは映画公開の2009年から1年後の世界…と、完全リアルタイムの演出が施されていた。
そして映画の中では1982年にすでにエイリアンが降り立ち、エイリアンが日常生活の一部となった世界観で描かれているのだ。
更に本作では、映画の冒頭から「ドキュメンタリー形式」で映画が描かれている。
「エイリアン移送計画」の全貌をそのまま切り取る番組の撮影をそのまま使用し、ヴィカスの「オチ」をヴィカスの周辺人物たちによって語らせていくドラマチックな演出となっていた。
「過去」の物語でもなく、「未来」の物語でもない、あくまで「現代」の別の世界線で描かれる物語、そしてドキュメンタリー形式で描かれる物語に、鑑賞者はこれをよりリアルに感じ取れる仕組みが出来上がっている。
壮大すぎるテーマ、土台となるのは「人種差別」
そして、普通のSF映画では全く描かれない、特殊な要素がもう一つ本作には隠れている。
それが「人種差別」がテーマとして練りこまれている点である。
(厳密には「人」種差別ではないが…)
エイリアンが地球における日常生活に28年間もの月日をかけて馴染んでいく中で、「エイリアン専用の居住区」や「エイリアン相手の商売」など、様々な「たられば生活」が送られていることはとても面白く鑑賞できる要素となっていた。
その中の一つとして、エイリアンが「難民」として隔離され、地球人からは「エビ」というスラングで呼ばれていることもまた脚本の面白さだろう。
そして、これはそのまま現代社会にも蔓延る「人種差別」と全く同じ受け取り方もできる。
俗にいう「アパルトヘイト」の要素を盛り込んだ作風であることは、映画のジャケットからも推測ができるが、居住区を指定された「ユダヤ人」や、心地よくないスラングが多い「黒人」といった、リアルに反映することができる描写が多いことも本作の特徴である。
・アパルヘイト
アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する言葉で、
特に南アフリカ共和国における白人と非白人の諸関係を規定する人種隔離政策のこと。
(今回の場合、「元々地球に居なかった生物」であり、例外の問題ではあるが…)
本映画はアクション満載のSF映画であると同時に、「人種差別問題」に対してのアンチテーゼにもなる壮大なテーマを抱えた「ヒューマンドラマ」としても鑑賞することができる。
そして、そんな問題を浮き彫りにさせた…最大の仕掛けが本作にはあるのだ。
小物すぎる主人公の絶妙すぎるキャラクター性!!
今作の主人公、超国家機関「MNU」のエイリアン対策課に所属するヴィカスは、難民のエイリアンたちを新たな区画に移住させる計画の総司令として仕事を任されることとなる。
今回の映画の中心では、そんな奔走するヴィカスの姿が通して描かれているが、ヴィカスの「小物っぷり」がいい意味で作品の世界観をぶっ壊している印象を受けた。
映画の主人公とはいえ、冴えない仕事と一般人としての立ち位置、エイリアンを卑下する思想、そして時折バカをやらかす彼のキャラクター性には本映画のジャンルを「ブラックコメディ」に変えてしまうほどに威力を放つキャラクターであると言っていいだろう。
謎の液体を体に受けた、そんな濃いキャラクターを持つヴィカスが、左手からじわじわと「エイリアン化」が始まってしまい「今までバカにしていたエイリアンに自分もなってしまう」という葛藤がうまく描かれ、よりヴィカスのキャラクターが濃いものとなっていた。
そして彼が出会うエイリアン、通称「クリストファー」、彼がかなりの人格者であることも本作では大きな特徴となっていた。
たくさんのエイリアンが生きるために地球で様々な悪さを働く中で、このクリストファーによって「エイリアンの中にもいい奴はいる」という感性を鑑賞者に与える役割を担っていたのだ。
人間に戻りたいヴィカスと人間より人格者なエイリアン、クリストファーの二人の関係性が本作の一番の見どころとなっていいだろう。
感動するラスト…?ヴィカスの価値観の移り変わりを紐解く
前述したように、かなりの「小物」であることがわかったヴィカスであるが、調子に乗った自身のミスによって、謎の液体を顔に受けてしまう。
その後も、物語の最後までエイリアンをバカにし続け、自分本位に生き、「人間に戻りたい」といった考えだけは捨てないまま展開していく。
「人間になるのに3年かかる」とわかるとクリストファーを殴り飛ばし宇宙船を強奪ししてしまうシーンが色濃く残っているだろう。
そして最後のシーン、クリストファーを殺そうとしたMNCの人間たちに対して、ヴィカスはクリストファーを守るために動き始める。
それまでのクリストファーに対しての「優しさ」は、「クリストファーの存在が無ければ人間に戻ることができない」という、あくまでも自分本位な考えのもとの優しさであり、利害の一致によって生まれた信頼関係であったが、宇宙船が壊れ人間に戻ることができないとわかったその時、ヴィカスは初めてエイリアンに「本物の優しさ」を見せるのだ。
その行動の真意には、クリストファーの温かさに触れたことももちろんであるが、エイリアンになりかけた自分を「人間たち」が蔑み、一切の感情無く解剖しようとしたことも要因となっているだろう。
それに対して、クリストファーは「絶対に迎えに来る」と熱い言葉をかけて去ることもヴィカスとクリストファーの本物信頼関係を意味している。
そしてエイリアンと化したヴィカスを殺そうとしたクーバス大佐を大量のエイリアンが襲うシーンからも、ヴィカスがクリストファーだけではなく、他のエイリアン達からも認められ始めた存在であったと考えることもできる。
あのワンシーンで、ヴィカスはやっと「エイリアンとして生きていくこと」を受け入れ「人間である自分」と決別した、重要なシーンとなっていたのだ。
物語のラスト、ヴィカスの妻に一本の鼻が届く。
その花を作った主として一匹の完全なエイリアンの姿が描かれるが、紛れもなくエイリアンとなったヴィカスであると考えられる。
真偽のほどは定かではないが…。