本記事は、映画「ガール・イン・ザ・ミラー」のネタバレを含んだ感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
ガール・イン・ザ・ミラー
2019年、アサフ・バーンスタイン監督によって制作されたサスペンススリラー作品。
鏡の中の自分と入れ替わり生活した女の子の物語。
上映時間は104分。
あらすじ
舞台はアメリカ、1人の高校生マリアは自分自身に自信が持てず、学校でも「出来損ない」と罵られ、イジメを受ける毎日を過ごしていた。
上辺だけの関係の友人や家族にも不満を持ちながらも必死に生きるマリアだったが、ある日、鏡の中に「もう1人の自分」を見つけるのだった…。
出演役者
本作の主人公マリアを演じるのが「インディア・アイズリー」
アメリカ出身の女優で、その可憐な容姿から映画作品の主役に抜擢されることも多い。
アメリカ映画の人気シリーズ「アンダーワールド」シリーズの4作目に当たる「アンダーワールド 覚醒」の主演を演じていることでも有名。
マリアの母親であるエイミーを演じるのが「ミラ・ソルヴィーノ」
アメリカのベテラン女優であり、ラブロマンスやサスペンス作品への出演が多い。
マリアの父親であるダンを演じるのが「ジェイソン・アイザックス」
イギリス出身の大御所俳優であり、「アルマゲドン」や「ブラックホークダウン」などの超有名作に出演する俳優。
そしてあの「ハリーポッター」シリーズで「ルシウス・マルフォイ」を演じているのも彼である。
ネタバレ感想と考察
ホラーのようでホラーじゃない!?作品の雰囲気の絶妙なバランス
本作品のジャケット、そしてタイトルを一見すると、完全に「ホラー映画」のそれであることは誰もが考えてしまうだろう。
しかし、本作を「B級ホラー映画」の一言だけで片付けるのは非常に勿体ない作品だろう。
本作はホラー映画に見せかけた、サスペンス作品であると考えていいだろう。
ホラー作品で演出させるべく「ビックリ描写」が本作では一切無く、寧ろ神秘的で暖かな気持ちに包まれる演出すらある。
物語の核となっている、鏡の中の「アイラム」の存在、本来であればホラーの要として扱われるキャラクターが、見事に物語を進行させる主人公の1人として機能していたことが何よりも面白かった。
また、本作では少々エロティックなシーンが登場するが、そんな妖艶なインディア・アイズリーの美貌からも、本作の雰囲気作りは行われている。
物語の「ホラー要素」は「人間的恐怖」だった!?
前述した通り、ホラーな描写自体は少ない作品であるが、「暗い作品」であることには変わりない。
そんな作風の「ホラー要素」として描かれていたのは、実は「鏡の中の自分」ではなかった点も印象的で、本作のホラー要素の核は「人間的恐怖」となっていた。
美容整形外科医である父親のサイコパス感溢れる様相や、母親の抱える双子の闇、そして友達による「イジメ問題」など、マリアの周辺環境で描かれる人間模様が一番恐ろしく感じた要素だった。
中でも、自分の娘に「美容整形」を促すシーンでは、その父親のクズっぷりに鑑賞者も阿鼻驚嘆してしまったのではないだろうか?
寧ろ(むしろ)「鏡の中の自分」は味方であり、性格も正反対で、そんなもう1人の自分による逆襲撃は「勧善懲悪」の構図を描き出す爽快感さえ溢れていた。
映画史において、必殺仕事人などの「勧善懲悪」の構図は数々描かれているが、本来ならば悪役であるはずのキャラクターによる勧善懲悪が描かれる作品は少ない。
「もう1人の自分」の性格に翻弄される
物語の中盤からマリアは「もう1人の自分」と入れ替わり物語が展開されるが、そんなもう1人のマリアのキャラクター性もなかなか面白いキャラクターとなっていた。
内気なマリアとは正反対の性格を持つアイラムは、マリアの数々の行動を見てきて「もどかしさ」を覚えていたと推測できる。
これまでに「イジメ」を受ける描写が多かったマリアであるが、これまでの彼女からは想像できないほどの強すぎるギャップと度を過ぎたその行動には「爽快感」さえ覚えてしまう。
それではアイラムはなぜ、こんな行動を引き起こしたのか?
大きな理由は3つ挙げられるだろう。
一つ目が「マリアが心配だった」
鏡と向かい合い、外の世界で生きるマリアを心配する様子などから、この感情が汲み取れる。
二つ目が「ただただ外に出たかった」
初めてマリアと入れ替わったシーンで、真っ先に煙草を吹かす行動は紛れもなく「自由を手に入れた象徴」となるシーンだった。
そして三つめが「父親に罰を与えたかった」
生まれながらにして、存在自体を抹消されてしまったアイラムは、マリアの影の中で、確実に父に対する憎悪を膨らませていったことだろう。
事実、最後に父親を殺してしまうが、彼女の目的はあくまでも「罰を与えること」であり、「殺すこと」ではなかったと考えている。
これは長年「鏡の中」で生きてきたアイラムにのみ起こる「生に対する認知の低さ」であり、「知識」としては知っていてもアイラムの中には「限度」という概念が存在していない。
いじめっ子を骨折させるシーンを始めとした、アイラムの行き過ぎた行為には、そんな道徳概念の崩壊が起こっているようにも見えるのだ。
また、本物のマリアと入れ替わってからというもの、数々の悪行に手を染めていくが、彼女自身もまだまだ世間知らずな「子供」であり、父親との食事のシーンであったり、ボーイフレンドを撲殺してしまい、鏡と向き合い涙を流すシーンなどからもそれが汲み取れる。
アイラムは決して絶対的な存在ではなく、あくまでも「本物のマリア」と相対的な思考や能力を持った人物であったことがよくわかる。
「もう1人の自分」の正体とは…?
作中に徐々になっていく、鏡の中の自分との関係性、その正体こそが「双子の姉妹」であったという事実だろう。
まずは物語の冒頭、女性の胎内を写す超音波写真では、マリアに生き別れた双子がいることが示唆されている。
そしてこの写真こそが、鏡を媒体としてもう1人のマリアを映し出した原因であるとも考えられる。
また物語の終盤では、元々ヒステリックであったような母親であるが、彼女自身がパニック障害を患ってしまった要因として「双子の片方を殺す」走馬灯が描かれている。
もちろん、本物のマリアはこれを知る余地もなく、すくすくと育つが、母親だけが双子の事件を引きずって生き続けていたことがこのシーンでわかる。
そしてラストシーン、母親であるエイミーは天井が鏡になっている寝室で横たわるが、ベッドと天井の鏡が映画のフィルムのように交互に写り変わるシーンがある。
右腕にはアイラムを、そして左手には鏡の中のマリアを、最後には2人が母親の腕に抱かれるなんともエモーショナルなラストシーンとなっていた。
3人はこの先どう生きていくのか?
マリアは元の世界に戻れるのか?
答えは闇の中となっている…。