本記事は、映画「ディア・ドクター」のネタバレを含んだ、感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
「ディア・ドクター」
2009年、西川美和監督によって制作された作品。
小さな村の診療所の物語。
上映時間は127分。
あらすじ
舞台は日本のとある村。
小さな村にある唯一の診療所、「神和田村診療所」では、村で唯一の医師「伊野治」が日々奔走していた。
そんな伊野の元に、東京から相馬という研修医やってくる。
最初は怪訝な表情を浮かべる相馬だったが、仕事熱心な伊野と暖かい村の空気感にどんどんと魅せられていく…。
出演役者
本作の主人公、伊野治を演じるのが「笑福亭鶴瓶」
看護師の大竹を演じるのが「余貴美子」
研修医の相馬を演じるのが「瑛太」
配信コンテンツ
「ディア・ドクター」は今現在、Amazonプライム、等で配信されている。
ネタバレ感想と考察
「村社会」という環境で描かれるもう一つの弊害。
本作品の中で描かれるプロットとして一番大きなもの、それが「村社会」ということだろう。
そして、映画として描かれる村社会に関しての悲観的要素は、通常「村のルール」や「宗教観」と言ったものとなる。
しかしそんな村社会に身を置きながら、このしがらみに関してはかなりポジティヴに描かれているのが本作の面白いところだ。
村人の助け合いや笑顔がたくさん描かれ、実際に東京から来た研修医、相馬もこの温かさに影響されることとなる。
そして、本作「ディア・ドクター」では、この村社会であるが故に、通常では描かれない問題が浮き彫りになってくる。
それが「一人の医師にすべての負担がかかる」という問題だ。
村で唯一の医師の周りは、いつも人だかりで溢れ、さながら「ドクターコトー診療所」の世界観を思い出した人も居ただろう。
伊野はなぜ「医師」をやり続けたのか?
結果から言ってしまえば、笑福亭鶴瓶演じる「伊野」はモグリの医師であり、医師免許などは一切持ち合わせていない人間だった。
「そんな伊野は、なぜ医師として働いていたのか?」
その理由は三つあると筆者は考えている。
伊野自身の口から語られるこの言葉。
これまでにも数々の病院を転々としていたことから、これを生業としていたようだ。
②村の温かさ。
これも伊野自身の口から語られる。
金儲けのつもりが、ひっきりなしに頼りにされ続けたことから、辞めるに辞めれなくなってしまった…ということだ。
③医療品の営業マンだった。
これは作中に登場する、香川照之演じる斎門から語られる。
医薬品の営業は医師ではないが、患者と接する機会は多く、そんなふれあいから「自分が患者を治している」という大義名分を背負ってしまうことがある。
そして伊野自身も、元々「心臓ペースメーカーの営業マン」だったことが明らかとなる。④父親へのあこがれ。
作中に展開される演出の一つで、伊野がボールペンを落とす描写が展開される。
そして、それは医科大学の記念贈呈物であると言及された。
また、既に認知症の症状が進行した父親にボールペンを無くしたことを謝ることから、伊野の父親は医者であったことがわかり、そんな父親へのあこがれもあったと推測できる。
これらの理由から、伊野は医師として働いていたわけだか、一際大きな理由となったのが、下の三つの理由だろう。
物語の最後、彼は病院の給仕として、再び鳥飼かづ子の前に姿を表す。
それは「金儲け」ではなく、純粋に彼女と関わっていたかったからだと推測できる…。
果たして伊野は裁かれるべきだったのか?
今回の作品の一番大きなテーマ、それは「伊野は果たして裁かれるべきなのか?」という問題だ。
結論から言ってしまえば、法治国家である日本において伊野の行った行為は間違いなく「犯罪行為」であることは否定できない。
…が、物語の結果を見れば「正解とは何だったのか?」を今一度考えさせられるような作りにもなっている。
村としては、医師としての伊野を大変重宝しており、伊野自身も勉強を怠らず、村人の命を何度も救っている。
それは現役の研修医である相馬も騙されるほどの職務だったことも真実だ。
物語は「伊野の居なくなってからの生活」と「伊野が居た過去の生活」が交互に展開されていく作風となるが、こんな映画の物語の進め方
も相まって、「伊野の必要性」を感じさせる作風となっていた。
この「医師の必要性」強いては「伊野の必要性」を感じさせる描写はかなり日常的に練り込まれている。
・神和田村の村長が伊野の疾走後に賄賂(タバコ)で刑事に医師を懇願する。
・波多野刑事が「伊野を奪ったことで私たちが袋叩きにされるかも」という冗談を言う。
・伊野の犯罪行為を告発した医師の鳥飼りつ子が自分を攻める旨の発言がある。
・物語の最後、癌で入院した鳥飼かづ子が伊野を見て笑顔になる。
今一度、問いたい。
「果たして伊野は裁かれるべきか?」
言葉だけで聞けば確実に裁かれるべき内容であるが、映画を最後まで観てみると、手放しでは頷けない「何か」が確かにそこに存在しているのだ。