本記事は、映画「イット・フォローズ」のネタバレを含んだ、感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
イット・フォローズ
2014年、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督によって制作された作品。
性交することによって伝染していく「それ」からの逃亡を描いた物語。
上映時間は100分。
あらすじ
舞台はアメリカ、高校生であるジェイは青春を謳歌し、仲の良い友達との関係を続けながらもヒューという青年と交際していた。
ある日、初めてのヒューと初めて体を交えた晩、ヒューからクロロホルムを嗅がされて気を失ってしまう。
目を覚ますとそこは廃墟の一室で、手足を車椅子に固定されている。
「それ」をジェイに移したことをヒューから告げられると、下から半裸の女性が追ってくるのだった…。
出演役者
本作の主人公、ジェイを演じるのが「マイカ・モンロー」
アメリカの女優であり、本作以外にも数々の映画作品に出演している。
主にスリラー作品が多いようだ。
また、カイトボーディングというサーフィンスポーツのプロでもあるらしい。
ジェイの彼氏であるヒューを演じるのが「ジェイク・ウィアリー」
アメリカの俳優で、本作以外の出演作は多くはない。
ジェイの幼なじみであるポールを演じるのが「キーア・ギルクリスト」
イギリス出身の俳優で、彼もまた数々のホラーやスリラー作品に出演している。
あの「グッド・ネイバー」に出演していることで有名。
ネタバレ感想と考察
これまでに無かった形態のホラー作品!?
今回の映画、しっかりと「幽霊」の存在が認知できるし、「人間的恐怖」も入り交じることからジャンルは120%のホラー映画となる。
人が次々と死んでいくことからも、インパクトか大きそうな脚本ではあるが、何故か感じる「ジワジワ感」がメインとなっているが、その正体こそが「伝染」していくプロットだろう。
ルールは全部で3つ。
①セックスをすることで「それ」はうつり、殺すまで永遠に追ってくる。 ②対象者を殺すと、「それ」は直前の対象者に戻る。 ③徒歩で追ってくる。
中でも、「ワープ」や「瞬間移動」の類いを使わずに、あくまで「徒歩」のみで追ってくることが最大の特徴となっていた。
車で遠くまで逃げれば、「それ」も到達するのに時間を要し、「緊張のシーン」と「心の休まるシーン」を交互に繰り返していることが、本作の恐怖の形態となるホラー要素だった。
ド派手な一瞬のビックリ要素や、ブレブレのアングルの緊迫感溢れる逃走シーンを使わずにここまでの「ホラー」を演出できることに驚くような作品となっていた。
「それ」の正体ってなんなの?
知らない人や友達など、老若男女誰にでも姿を変えて襲ってくる「それ」であるが、その正体は明かされないまま、物語は終幕を迎えた。
ビーチのシーンでは、友人でありメガネが印象的な「サラ」に変貌し、またやんちゃなグレッグを襲うシーンでは「グレッグ本人」、そして「グレッグの母親」に変身する「それ」であるが、映画内での「それ」の正体については、鑑賞者の想像に任せられる終わりとなっていた。
物語を紐解いてみると、まず考えられる「それ」の持つメッセージ性は「エイズ」などの性病が一番近いものとなっていた。
ジェイの彼氏を取っかえ引っ変えするキャラクタ性や、グレッグのやんちゃなキャラクター、ヒューが「それ」をうつされたきっかけも「バーで出会った女性との一夜」であることからも、性病への警笛と捉えるのが一般的だろう。
しかしその一方で、本作の監督へのインタビューでは全く違う答えが帰ってきている一面もある。
本作のロバート監督は、「これは死の恐怖を体現している」とも語り、本作における「裏のメッセージ」の存在を匂わせている。
人間の「死」の近づくスピードを徒歩で近づく「それ」に投影させ、「どこまでも追ってくる」ことに関しても辻褄が合うだろう。
そしてつかの間、「死の恐怖」から解放してくれる行為が「睡眠」であり「セックス」でもある。
意図されてのものなのか、眠っているシーンや、セックスの最中には襲われないのもこんなメッセージからなのだろうか…。
時代背景すらも「演出」に織り込まれる!?
今回の映画、時代背景として2つの説が存在している。
片方の説では1990〜2000年代。
これは主人公たちが「スマホ」を所有せず、友達のサラが電子書籍を閲覧していたことから推測される説であるが、「携帯電話」の不使用は「物語に時代を匂わせないための映画の手法」でもあるため、一概には言えない。
そしてもう片方の説では、2015年。
これは物語の終盤「デトロイト郊外」であると地名が判明するシーンだ。
「ミシガン州デトロイト、8マイル通り」と呼ばれるその周辺の歴史がこの時代を匂わす環境となっていた。
また、車にカーナビは存在せず、テレビもブラウン管であることからも、時代背景は更に煙に巻かれる結果となっている。
前述した通り、「時代の経過」による映画の劣化を防ぐための手法であるだろうと推測する。
作品のメッセージ性と残る謎…。
「それ」が襲い来る時、その形態は様々で、物語の冒頭では「黄色い服の女性」から始まる。
これによって「それ」の存在は認知され、進んでいくが、物語のラストが物議を醸している。
物語のラスト、ジェイとポールが手を繋ぐ裏では白シャツと赤と黒の柄の衣服を身につけた男性が歩いてくる終わりとなる。
果たしてこれは「それ」だったのだろうか?
このシーンの前にポールが娼婦の利用を匂わすシーンがあることを垣間見ても、単なる一般男性とも考えることができてしまうのだ。
いずれにしても「うつした者が死亡すれば、対象は自分に移る」というルールがある以上、一度うつされた者は一生を怯えて暮らさなければならないことが何よりの恐怖だろう。
ラストシーンの男性でも、このルールが見事に演出されるような終わり方となっていた…。
また、映画の序盤でジェイのプール姿を覗き込む赤いパーカーの少年が描かれているが、彼は作品の中でこの後にも2度登場している。
一度は「赤いボールが窓に当てられるシーン」、そして二度目は「友達と『それ』との決戦のために、市民プールに向かうシーン」だ。
この少年の存在の意味は何だったのだろうか…?
ここからは筆者の考察であるが、「それ」などの幽霊に追われる以外でも、「人間的恐怖」の象徴としたストーカーとしての描かれ方がされたキャラクターだったと考察する。
ジェイ自身に接触することは無くても、十二分に恐怖感を感じ取ることができるキャラクターとなっていた。
あの「クエンティン・タランティーノ」が絶賛した!?
本作の公開であるが、最初はアメリカ国内での4会場のみの上映となり、そこまでの「大ヒット」ではなく、ジワジワと売れ続けていた映画であるようだ。
そんな中でも、「映画の根本的テーマ」についての議論がなされたが、これにアンサーが得られない作風が客を呼んだとも言われている。
そんな最中、あの巨匠「クエンティン・タランティーノ監督」がこの作品を絶賛したとのウワサもある。
タランティーノ監督は「映画はとても素晴らしいが、いくつか欠点がある。」とコメントを残し、「賞賛」として作品を評価したが、これに対してロバート監督は「その指摘はミスリードである。」と反論したのも有名な話となっている。
あのタランティーノ監督に意見すること自体が恐れ多い中で、こんな言葉を残したとして、とてつもない度胸を持った監督であるが、それこそが作品に対する熱意の現れなのかもしれない。
また、前述したように「これは死の恐怖を体現している」と、本作について述べたロバート監督であるが、それを代弁するかのような伏線が作中にもしっかりと現れているのだ。
そのシーンはジェイが授業を受けている中で老婆となった「それ」が襲うシーンである。
ジェイの耳には入らない中で朗読されているのがドストエフスキー著の「白痴」であり、その中でも「生と死」に関する一説を謳ったシーンだった。