本記事は、映画「セブン」のネタバレを含んだ、感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
「セブン」
1995年、デヴィッド・フィンチャー監督によって制作された作品。
若い刑事と定年間際の刑事の2人が、州を震撼させた猟奇殺人事件を追う物語。
上映時間は127分。
あらすじ
舞台はアメリカ、とある大都会。
ここに血気盛んな新人刑事ミルズと定年間際のベテラン刑事サマセットのコンビがある事件に着手していた。
その内容は「食物を大量摂取させられ、その後腹を殴打されたことによる内蔵破裂」というとんでもなく残酷なものだった。
そしてこの後に起こる数々事件が「七つの大罪」とリンクしている事件であると判明する…。
出演役者
本作の主人公ミルズを演じるのが「ブラッド・ピット」
もう一人の主人公サンセットを演じるのが「モーガン・フリーマン」
配信コンテンツ
「セブン」は今現在、Amazonプライム、Netflix、U-NEXT、Hulu、等で配信されている。
ネタバレ感想と考察
デヴィッド・フィンチャーの第2作目、サイコサスペンスの狼煙!
本作を制作したデヴィッド・フィンチャー監督、今でこそ有名作を数多く世に放つ監督となったが、今作はそんな彼の第2作目となった。
この後に彼は、「ゲーム」「ファイト・クラブ」「ベンジャミン・バトン」「ゾディアック」そして「ドラゴン・タトゥーの女」「ゴーン・ガール」などのサスペンス作品を世に放つこととなる。
まさに「現代のサスペンス映画の第一人者」にふさわしい監督こそこのデヴィッド・フィンチャー監督である。
また、本作を皮切りに有名俳優「ブラッド・ピット」はフィンチャー監督の作品に数多くキャスティングされることになるのだ。
今作で描かれるのは、まさにサスペンス映画の王道を行く脚本で、「2人の刑事が連続殺人事件を追う」という設定となった。
なかなかにベタな設定ではあるが、なぜ未だに語り継がれる名作となっているのか?
それはこれから始まるフィンチャー監督のダークな世界観を体現する、暗くグロテスクで刺激的な作風となったからだろう。
SAWのライバルと謳われた作品!?
今や超有名作となった「SAW」の一作目であるが、今作のセブンとパッケージや内容すらも、かなり似ていると感じた人も多いだろう。
中には「SAWのライバル作品」であったり、「SAWのパクり」などと呼ぶ人も見たことがあるが、実は本作は、SAWの10年も前に公開された作品となった。
今でこそ当たり前のように描かれる「リアルなグロさ」ではあるが、当時描かれるサスペンス作品にしては非常に斬新なグロテスクなシーンも多かったことだろう。
本作の中では「ジョン・ドゥ」という男が7つの事件を起こす物語であるが、これが「SAW」の事件と非常に良く似ている。
それは「被害者側も何かしらの汚点がある」ということだ。
そんな人間たちを拷問殺害することによって、あたかも自分が「聖職者」となるように立ち振る舞うジョン・ドゥの姿は、SAWシリーズの黒幕「ジグソウ」と似たような理念を持ち、行動に及んだとも推測できる。
ちなみにではあるが「ジョン・ドゥ」は仮名であり、日本で言うところの「名無しの権兵衛」のような扱いとなる。
そのグロさと映画のテーマ。
本作はサスペンス映画でありながらこれまでにはなかった凄惨な描写と、宗教観がとても濃いテーマが設定されていた。
今回語られるテーマは「七つの大罪」である。
・七つの大罪
キリスト教における七つの死に至る大罪。
現代のキリスト教では、人間を罪に導く可能性がある行為とされている。
「七つの大罪」にいくつか考え方が存在するが、本作では「カトリック教会の七つの罪源」が適応される
1.傲慢
2.強欲
3.嫉妬
4.憤怒
5.色欲
6.暴食
7.怠惰
これらに当てはまる人物に制裁を与えるように殺人が行われることこそ、本作で描かれる本筋となる。
①「暴食」
映画冒頭の最初の犠牲者。究極の肥満体型の男性が「ミートスパゲティ」を12時間に渡り食べさせられ続け、最後は犯人により腹部を殴打され、内臓破裂により死亡する。
手足は有刺鉄線で縛られ、皿に顔を突っ伏す形で死亡していた。
②「強欲」
2人目犠牲者。ここでこの事件が「七つの大罪」になぞられていることを知る。
被害者は弁護士で、死体はちょうど贅肉の部分を1ポンド分切り落とされており、状況から犯人は2日かけて、被害者にどこの肉を切るか選ばせていたと推定された。
彼はこれまでに報奨金に釣られ、数々の犯罪者を外に出している。
③「怠惰」
3人目の犠牲者で、1年前から仕込まれた計画的犯行。
左手首を切られ、舌を噛み切った状態で、ベッドに縛りつけられ廃人状態となった姿で発見され、かろうじで生きていた。
1年間もの間ベッドから動けなかったことが「怠惰」に値すると考える。
④「色欲」
性病持ちの娼婦の女性の被害者。
客となる男性に股間に刃物が着いたような履き物を履かせ、そのまま行為に及ばさせ、女性を殺害した。
⑤「傲慢」
モデルの女性の被害者。
美しい顔面を切り裂かれた状態で片手に電話、もう片手に睡眠薬を持たされ、「醜い容姿で生きるか?自殺するか?」の二者択一を迫られた。
結果彼女は自殺を選ぶ。
⑥「嫉妬」
被害者は犯人のジョン・ドゥ自身。
美しい妻を持ち、子供を持つミルズ刑事に嫉妬していた。
結果、ミルズの妻を殺害したことで、報復として射殺される。
⑦「憤怒」
被害者は刑事のミルズ。
犯人のジョン・ドゥを射殺したことで逮捕されることとなる。
死んでいない。
実はこれ、カウントしてみると死亡しているのが5人となり、「2人足りない」状態となる。
一部の考察では、6人目が「ミルズの妻のトレーシー」、7人目が「トレーシーが身篭っていた子供」であるという考察もある。
その点については答えは出ずに終わっている…。
鬱すぎる展開と胸糞悪さの要因。
本作の最後まで観ると、期待を裏切らない「鬱な展開」が待ち受けている。
これまで仲睦まじい夫婦の姿を見せていたミルズ夫妻だったが、ラストで「妻トレーシーの首がプレゼントとして届く」という衝撃の終わり方には、うだつも上がらない鑑賞者も居たことだろう。
こんな鬱な終わり方であるが、実は諦めが付くほどに狡猾で残酷な「ジョン・ドゥ」のキャラクター性こそが、この要因を加速させているように感じた。
彼はまるで自身が「聖職者」であるかのように殺人を行い、それはなんと1年以上前から仕込まれていた。
そしてラスト、彼が6人目の被害者として選んだのは「自分自身」だった。
ミルズがジョン・ドゥを射殺した時点で6、7人目の犠牲者も同時に出たこととなり、これにて完全終了。
ジョン・ドゥの完全勝ち確ゲームとして幕を閉じてしまう胸糞悪さが後を引いてしまうのだろう。
そして、そこから間延びされることもなく、パッタリと映画はエンドロールに入ってしまう…。
つくづく胸糞悪い終わり方だ…。
更に言うのであれば、妻のトレーシーは作中に、ベテラン刑事サンセットとの会話で「この街で子供を育てるのが不安」との理由から、子供を産まずに独り身で生きていることを告白される。
これだけの犯罪が蔓延る街で、子供を育てるのが危険だと判断したのだろう…。
しかし、これを跳ね除けるように「子供を産む」と宣言していたトレーシーの姿が、より残酷にラストを引き立たせる。
地下鉄の電車の通過によって大地震かのような振動が起こる家の中で、トレーシーは「この街が嫌いだ」とサンセットに語りかける。
そしてそんな「嫌いな街」の犯罪者に子供もろとも殺されることになってしまう…。
本当に「救いがない」とはこのことを言うのだろう。
ちなみに、本作の映画のシナリオを執筆した「アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー」は、自身の経験した「ニューヨークの生活」からこの映画の着想を得たとも語っている。
「事実は小説よりも奇なり」なんてこともあるのかもしれない…。