本記事は、映画「カフカ 変身」のネタバレを含んだ、感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
「カフカ 変身」
2019年、クリス・スワントン監督によって制作された作品。
フランツ・カフカが1912年に出版した「変身」を完全映画化した作品。
上映時間は102分。
あらすじ
舞台はドイツ、布地の販売員として働いていたグレゴールは仕事のために朝起きる。
時計を見ると、もう7時40分だった。
起きようと思うが、体が上がらない。
そして腕はおぞましい形となっている。
そこでグレゴールは気がつく。
起きたら「巨大な毒虫」になっていたのだ。
その時、母親や父親が起こしにノックをして扉を開けようとしてくる…。
配信コンテンツ
「カフカ 変身」は今現在、Amazonプライム、等で配信されている。
ネタバレ感想と考察
世界的ディストピア名著、フランツ・カフカの「変身」をどう表現したのか?
本作の元となる小説は1912年のフランツ・カフカ「変身」である。
「朝起きたら、体が巨大な毒虫になっていた…」というぶっ飛んだプロットには、どう物語が進んでいくのか気になって仕方がない、背徳的好奇心が生まれるような作品だ。
そんな作品が2019年に完全映画化するとあっては、一体どんな表現のされ方をするのか…非常に気になる作品だろう。
本作は、そんな「毒虫」の姿をフル3Dを駆使して制作され、真っ向勝負のストレートな魅せ方をしていたように感じる。
この言葉だけで聞けば、「Z級映画」としての烙印待ったナシの滑稽な映画が完成しそうなものであるが、鑑賞してみると”意外とそうでも無い”ような作品だったのではないだろうか?
毒虫の姿は「完全なる毒虫」というよりは「人面」を兼ね備えた半人半虫のような気持ち悪さがあり、これを「賛」と見るか「否」と見るかは、鑑賞者によって全く違う見解となる。
実は、フランツ・カフカ自身はこの作品について一切の「写実表現」を禁止していて、出版の際には「昆虫そのものを描いてはいけない」「遠くからでも姿を見せてはいけない」と注文をつけていたほどらしい。
身も蓋もない話になってしまうが、映画にすること自体が「野暮」であることは心の中でだけ思っておこう…。
物語で伝えたかったこととは?
この物語、カフカの代表作であり「実存主義文学」「不条理文学」の一作として知られている。
・実存主義文学
自己の本質作り上げるために人生を選択し、責任ある行動をとり、「状況」のなかで、歴史や社会に参加しながら、その状況を受け止め乗り越えて、真の自由を獲得しようとする人間を描こうとする文学。
・不条理文学
非合理的な出来事が展開され、本質的な原因や意味などを持たない文学。
上記で言うように「不条理文学」として該当されることから、本作に作品テーマなどを見出すことは相当に困難だと筆者は考えている。
…が、そうでもない。
最初は驚きつつも丁重に介抱していた家族であったが、次第にグレゴールに対して冷たい態度になっていく姿が、この100分の中で展開されていく…。
そんなグレゴールの姿には「喜怒哀楽」の感情抜きでは語れない「何か」が確実に存在しているのだ。
グレゴール目線の人間は「血も涙もない」生物に見える瞬間もあれば、グレゴール自体に「嫌悪感」を抱いてしまうシーンもある。
物語の後半でヴァイオリンを弾く妹を見て「人間になれた」と錯覚するグレゴールは、妄想の中で妹にキスして抱擁を交わす。
そして一人寂しく、部屋で野垂れ死んでいく…。
この胸糞悪さを言語化するには、筆者には難しすぎる…。
人は見た目が12割。
少し前、日本で流行した「人は見た目が9割」という書籍を皆さんは知っているだろうか?
まさにその言葉通り、それは2023年の現代社会でもより強く意識されるような格言だろう。
本作で展開されるグレゴールは「人としての知性や理性」は保ったままに、姿形だけが「毒虫」に変化する。
家族はそんな見た目に影響され、これまでの対応を180°変えてしまう心情変化がよりリアルに描かれている。
作品の中の人間「グレゴール」は、元々妹想いの好青年で、妹を「ヴァイオリン学校」に通わせるために必死で働いてきた。
父親の事業の失敗により、若くして一家の大黒柱として家計を支え、会社を休めば上司が訪問するほどに信頼の置かれた人間であったとも考えられる。
そんな彼が、「姿形の変化」だけで死にまで追いやられる物語は悲痛以外の何物でもない。
「もし家を出ていたら…」
「もし言葉を喋れたら…」
そんな分岐ストーリーを考察させるのも「不条理文学」の楽しみ方の一つなのだ。
そして鑑賞者の100%の人が考える、「もし自分がこうなったら…」
ウソでしょ…実は「ギャグストーリー」だった!?
本作もそうであるように「不条理文学」というと、そのほとんどがディストピア感溢れる暗い作品ばかりで、カフカという作家自身がそんな小説ばかりを執筆していた。
しかし作品を深くまで追求していくと面白いことがわかってくる。
カフカはこの物語の原稿を朗読する際、絶えず笑いを漏らし、時には吹き出しながら読んでいたというのだ。
言われてみれば、本作も「ダークコメディ」と言われればそう見えなくもない。
2016年に公開された韓国映画「フィッシュマンの涙」という作品もあり、こちらでは「逆人魚」状態の青年が生まれてしまうような作品となっていた。
こちらも「コメディ」と「ダーク」が50%ずつの比率で描かれる作風として描かれ、人間とは思えない「奇形」と成り代わる物語では、不謹慎ではあるが、笑いが意識されてしまうのも事実だ。
映画における不条理文学と「コメディ要素」は切っても切れない縁があり、そこに「深い意味」を探し始めると完全に泥沼となってしまう…。
不条理文学はいつもそんな側面を持ち合わせている。
もしかしたら、カフカに踊らされいるのはこちら側なのかもしれない。