本記事は、映画「ゆれる」のネタバレを含んだ、感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
「ゆれる」
2006年、西川美和監督により作られた、日本のドラマ映画。「友人が殺人を犯す」という夢を観た監督が着想を得て作成された。
上映時間は119分。
あらすじ
舞台は日本、故郷を離れ、東京で写真家として働く早川猛。
母親の法事で久々に帰省し、兄の稔(みのる)が経営する実家のガソリンスタンドで働く昔の幼馴染の智恵子と再会する。
兄弟と彼女の3人で渓谷へ遊びに行くが、智恵子が吊り橋から落下し死亡する。
その時、近くにいたのは兄の稔だけだった。事故か?殺人か?
兄を庇う猛の心はゆれる。
出演役者
今作の役者は日本を代表する有名役者が名を連ねる。今作の主人公、早川猛を演じるのが「オダギリジョー」
猛の兄、稔を演じるのが「香川照之」
幼なじみの川端智恵子を演じるのが「真木よう子」
その他「新井浩文」や「伊武雅刀」などの名俳優が役を演じる。
配信コンテンツ
「ゆれる」は今現在、Amazonプライム、等で配信されている。
ネタバレ感想と考察
西川監督の名刺的作品!サブカル層に宗教的人気を誇る作品。
最近の邦画には増えてきた「日本的なダークさ」「サブカル的要素」、その元祖とも言える時代に生まれたこの映画は、ひぐらしの鳴き声と共に独特な世界観が展開されるのが特徴だ。
映画の大きなプロットは、主人公の猛の心情が映像として映される進み方をしていて、そんな心理描写を視覚で感じ取る楽しみ方ができる。
何よりも、猛を演じるオダギリジョーがとても素晴らしいセンスの持ち主で、ファッションセンスや、愛車「ムスタング」、しいてはタバコの銘柄「アメスピ」までもがオシャレなキャラクターとなっていた。
このオダギリジョーのキャラクターに魅せられ、本作を推す映画マニアが多いのも事実だろう…。
それに相対するような真面目な稔(みのる)を演じるのが「香川照之」だ。
「本当か嘘かわからない」真顔と笑顔の怪演が見事な作品となっていた。
そんな180°真反対の性格を持つ二人の織り成す群青劇が今作最大の見どころであり、サブカルをこよなく愛する層に引っかかった最大の要因でもある。
西川美和監督の数々の映画には「実力派」と称される俳優が多数出演しているが、本作「ゆれる」のオダギリジョーと香川照之は、そんな彼女の作品の中でもトップクラスの演技力であったと筆者は思う。
「ゆれる」のダブルミーニングと対象的な二人。
今作のタイトル「ゆれる」であるが、二つの意味が掛かっている内容となる。
一つ目は渓谷の橋が「ゆれる」ということ。
二つ目は稔を疑う猛の心が「ゆれる」ということ。
こんなダブルミーニングが今作で描かれるメインテーマとなる。
また、心情としては猛だけではなく、対象的な稔と猛の「比較」が伏線的に織り込まれている演出があるのも面白い。
例えば身内が集まる葬儀では、真面目に喪服で親戚に気を遣う稔に対して、猛は破天荒なキャラクターで自由気ままに振る舞う。
そして、猛と智恵子がセックスをしているシーンでは、稔がトラックの給油口に「挿入」しているシーンが描かれていたりする。
まさに登場キャラクターの「光と影」のような存在となる二人。
そんな二人の関係性をもっと紐解いていこう。
稔の本心とキャラクター性。
兄弟として生きた30年以上、猛はひたすらに稔を敬愛し続けていたが、「行動」で示すことは決してしなかった。
これが猛の立ち位置だ。
一方で稔は、頼りがいのある品行方正な兄を「演じていた」に他ならないと筆者は考える。
刑務所に入ってからの彼が「本物」なのだ。
これまで稔はプライドのみで、ここまで自分を抑えてきた。
しかし猛の帰郷が起爆剤となり、全てが崩壊した。
30年間我慢できるほどに人間は強く、崩れると弱い。
そして完全なる「悪人」として描かれる稔であるが、何故か湧いてしまう「可哀想」という感情。
その正体はもちろん「皆さんの中にも似た感情があるから」だ。
現代の日本において、「真面目すぎる人は損をする」「ズルい人が勝つ」という一面は確実に存在していて、そんな核心を映画に落とし込んだのが、この「稔」というキャラクターなのだと思う。
真面目すぎる性格、容姿端麗とは言えない顔、挙句の果てには「長男」という立ち位置。
真面目すぎる人は恐らく稔に共感できる人も多いと考える。
仮に智恵子を落としたことが本当だったとして、稔は本当に悪かったのか?
手放しでは頷けない筆者が居た。
2009年の「ディア・ドクター」でも、「医師不足の村で働くモグリの医師」が描かれている。
法的には悪でも、問いかけたくなるような作品作りが西川監督は非常に上手い。
稔は智恵子を本当に落としたのか?
前項でも取り上げた、本作の一番映画テーマの中心となるこの事件、結局は稔は智恵子を本当に落としたのか?
鑑賞者の目線に立てば、全ては猛のさじ加減一つでどうとでも転んでしまうような内容だ。
実は、同じ西川美和監督が書く、本映画の元となった小説で、真実らしきことが書かれている。
智恵子が橋の上で稔を拒絶した時、その後、稔は再び智恵子の肩を掴んだ手に力を込めた。
それでも最後は智恵子の手を掴み、助けようとした。
…という内容だ。
実はこれ、映画の中でも描写されたシーンであるが…気がつく人は気がついただろう。
それでは何を根拠に「これが真実」と言っているのか?
それは、小説ではこのシーンが「智恵子目線」で描かれているからだ。