本記事は、映画「ヴィレッジ」のネタバレを含んだ、感想と考察記事です。
鑑賞したことが無い方は、注意して読み進めてください。
「ヴィレッジ」
2023年、藤井道人監督によって制作された作品。
とある地方の田舎にできた巨大なゴミ処理施設の物語。
2022年に死去した映画プロデューサー川村光庸の遺作にもなる。
上映時間は120分。
あらすじ
舞台は日本のとある田舎の村。
巨大なゴミ処理施設で働く片山優はやさぐれながらも母親の借金返済のために働いていた。
そんなある日、優の幼なじみである美咲が帰郷してくる…。
出演役者
本作の主人公、片山優を演じるのが「横浜流星」
ヒロインである美咲を演じるのが「黒木華」
いじめっ子である透を演じるのが「一ノ瀬ワタル」
配信コンテンツ
「ヴィレッジ」は今現在、Netflix、等で配信されている。
ネタバレ感想と考察
「村社会」のどす黒さを描くサスペンス!!
タイトルにもある通り本作で描かれているのは、限りなくどす黒い「村社会」の収縮図だ。
これはこの映画のテーマにおける大切な額縁であり、物語は全てこの枠内で進行することとなる。
さながらアニメ「ひぐらしのなく頃に」で展開されるような世界観で、優の抱える葛藤がそのまま作品の暗さへと繋がっているように感じた。
この作品のテーマはとどのつまり「同調圧力」がヒエラルキーに直結しているという社会のように見える。
「出る杭は打たれる」という考え方が200%の力で優を押さえつけるのは、もはやホラー映画で感じる鳥肌と言っても過言ではない。
この「村社会」を題材に描かれた映画作品は非常に多い。
中でもラース・フォン・トリアー監督の「ドッグ・ヴィル」でも、村社会を舞台に描かれた壮絶な鬱映画となっている。
一方でこの物語は、始まりから優自身に「ゴミ処理場の建設に反対し、殺人を犯した男の息子」という烙印が押された状態からスタートする。
そんな集団によって、蔑まれ続ける優の境遇と立場こそが一番の見どころとなるだろう。
本作の公開にあたり、監督自身が「霞門村は日本社会の縮図だ」とも公言しているのだ…。
霞門村の伝統芸能「能」について
田舎の村…と言っても悪いことばかりではない。
古き良き村にはどこにでも地方特有の「伝統芸能」があるというものだ。
今回の舞台となる霞門村にも「能」が日常に馴染み嗜まれており、年に一度の祭りでは「能」の鑑賞が行われ、村の権力を握る「大橋家」は一族が代々「能楽師」としての一面を持つ。
主人公の優も幼少期は「能」を嗜んではいるが、今回のカギとなるのが能の演目の一つ「邯鄲(かんたん)」と言われるものだ。
「邯鄲(かんたん)」
能の演目の一つである。
中国に住む一人の「盧生(ろせい)」という男の物語。
盧生は日々ただ呆然と暮らしていたが、ひょんなことから「邯鄲の枕」という不思議な枕で一眠りすることになる。
その枕で寝てから、彼は皇帝になるまでに上り詰め、栄華をほしいままにし、五十年が過ぎる。
それはやがて途切れとぎれになり、「栗ご飯が炊けた」と、宿の主人に起こされる。
全ては「夢」だったのだ。
こんな内容であるが、鑑賞者の皆さんはもうお気づきだろう。
これは優に非常に良く似た境遇となっている。
彼自身も借金に追われ、日々を怠惰に生きていたが、美咲の帰郷をきっかけに夢のような生活が始まる。
そして、透の死体の発見によって、また地に落ちていく…。
これの「邯鄲」は作中に至る所で踊られる演目で、優自身が踊るのもこの演目だ。
「能」という伝統芸能と、「村社会」という世界観のマッチ、そして「邯鄲」という演目のマッチが非常にバランス良く織り交ざった作品となっていた。
「生贄」と「謎の穴」の正体…。
「村社会」という世界観で描かれるダークな一面として、もう一つの要素がある。
それは「生贄」という概念だ。
昔から「閉鎖された集落では年に一度、人間を神に献上することによって豊作を願う…のようなプロット」はホラー映画ではよくある設定だろう。
本作でもそんな「生贄」という概念は表されている。
まず一人目の生贄は、優の父親である。
彼はゴミ処理施設の建造に反対し、殺人を犯し、死んでしまう。
そして優の父親はそんな住民の「不満」全てを背負って死亡した「生贄」とも捉えられるわけだ。
そして二人目は「美咲」である。
こちらも事実として透を殺害してはいるが、村の村長によって「生贄にしよう」というフレーズをストレートに発しているのだ。
そして何事も無かったかのように住民は暮らし、ゴミ処理施設は稼働していく…。
そんな集団の恐怖が描かれていく。
そして、ゴミ処理施設には「シュー」と音が鳴る穴が存在していた。
これがしっかりと回収されずに物語が終わったことに、違和感を感じた鑑賞者も多かっただろう。
優はこの穴を覗き込んでは、時折自分でも「シュー」と口に出している。
これは筆者の見解となるが、この穴の意味するところは「人間の業の深さ」だと考えられる。
演目「邯鄲」でも、優の立ち位置でも、ヤクザの「裏バイト」でも、そして何より村長の立ち振る舞いからも、「業の深さ」を感じるシーンがいくつもある。
この作品は多くを求めすぎた人間の行き着く先を示したかったのではないだろうか…とも考えてしまう終わり方となった。